説教要約(10月)

2023年10月29日(日)  説教題:「強くする」  聖書;ローマの信徒への手紙16章17~27節
 今日の箇所にありますのは「福音によって強められる」ということです。パウロはここでそれを「わたしの福音」と語りました。そう言ってしまうと、なんだか自分がキリストを独占しているような感覚を覚えてしまいます。ですが、それは間違いではありません。キリストは神様によってこの世界に与えられて、十字架で死に、復活しました。この福音によって示された赦しと復活の出来事は、全ての人に与えられています。「全ての人に」ということは、これを聞く私。そしてあなたに示された福音であるということです。キリストの福音を聞く私たちはこれを独占しましょう。「他の人に分け与えない」という意味での独占ではなく、聖書の言葉やキリストの出来事は、あなた自身に与えられたものだから、これが「自分に言われたものだ」と一人占めすることは何も悪いことではありません。その感じ方や捉え方には個人差があるでしょうが、どのような形であれ、この福音はあなたに与えられました。それを自分自身が受け入れられたときに、キリストの教えや聖書の教えという少し離れた場所にあるようなものが「わたしの福音」になります。これは誰も曲げたり奪ったりすることのできない、あなたの福音です。キリストがあなた自身に語り掛け、それが良い知らせとして自分のものになります。そうなった時に、キリストの出来事は「わたしの福音」として、「わたしだけのかけがえのない福音」として生きる糧となっていくのです。
 その福音が私たちを強くします。ここで「強くする」と聞きますと、武器や防具などの力を付けて正面から敵やサタンを打ち砕る姿を想像してしまいますが、そうではありません。それだと世間一般で語られる価値観での強さと同じになってしまいます。そうではなくキリストの強さは、人間の目から見れば弱いときにこそ働くものです。キリストの十字架での死と復活によって、神様と人間とが繋がっていられるようにしてくれたことが福音でした。この十字架と死と復活。これらは煌びやかで強さを象徴するような場面ではありません。十字架で死んだキリストも、そのイエスを十字架にかけた私たち人間にとっても、その弱さが極まった瞬間でした。この弱さと罪を私たちはずっと抱えています。しかしその罪を贖いによって赦しへと招いてくれたのがキリストです。私たち人間が弱く苦しいときを、同じように体験してくれました。そのキリストが今も私たちと共にあります。弱さの中で、寂しさと空しさの中でキリストは、あなたと共にあります。その私の福音によって励まされて、私たちは強くなります。はたから見れば弱いままかもしれませんが、このキリストが共にいることが私たちの強みです。この世界のどの力でも引きはがすことができないキリストの福音が共にあることが、私たちを強くするのです。


2023年10月22日(日)  説教題:「人の間にある光」  聖書;ローマの信徒への手紙16章1~16節
 この箇所は「個人的なあいさつ」とタイトルが付けられていました。その中で繰り返し使われていた言葉があります。それは「よろしく」です。日本語では「よろしく」と訳されているのですが、原文では「挨拶をしなさい」という意味になります。この挨拶は「シャローム」です。これは「おはよう」や「こんにちは」など全て場面で、当時の人たちが日常的に交わしていたあいさつでした。これには「平安」や「平和」、そして「満足する」という意味があります。人と会うたびに「主の平安で満たされますように」とあいさつを交わすことで、相手に神様の恵みがあることを祈っていました。
 パウロが手紙で「よろしく」と伝えたのは、主のために苦労する人でした。主のために苦労するのは、この当時のキリスト者だけではありません。イエス様を信じて今を生きている私たちもその一人です。イエス様を信じて喜びをもって信仰生活を送っているのですが、そこには「主のための苦労」が伴います。キリストを信じたからといって、全てが解決して幸せしかない状態になるわけではありません。キリストを信じているからこそ、十字架でイエス様に負わせた痛みが、私の痛みとして覆いかぶさってきます。この痛みを覚えることによって、私たちはイエス様を信じていきます。多かれ少なかれ、イエス様を信じていくことには苦労や痛みを伴うのです。
 そんな私たちにこの手紙は語り掛けてきます。「キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。」ここでの「あなたがた」はこの箇所で言及された一人ひとりを指しています。ですが、これがみ言葉として私たちに与えられてきたときに、この「あなたがた」は別の意味を持ちます。ここで言われているのは「私たち」です。この聖書を今日この場で聞く私、あなた、一人ひとりに言われている言葉です。キリストの全ての教会があなたに「よろしく」と言っています。これは現代の世界中だけではなく、これまでの歴史の中で引き継がれてきた信仰生活を生きた「全ての教会」です。鳥取で信仰生活をおくる「あなたに」、「わたしに」、聖書は「よろしく」と呼び掛けています。この「よろしく」は「シャローム」、平和のあいさつでした。「あなたに主の平安がありますように」、「あなたに神様が平和をもたらしてくださいますように」。私たちの信仰生活は弱さと痛みを伴うものです。しかし、そんな私たちだからこそシャロームが必要です。私たちの足りないところを神様が満たして、神様が平安を与えてくださいますようにという慰めの言葉が必要です。このシャロームによって私たちは励まされ、慰められて、主の平安が与えられるように歩んでいくことができるのです。

2023年10月15日(日)  説教題:「人の間にある光」  聖書;ルカによる福音書17章20~23節
1015日は特別伝道礼拝だったため説教要旨はありません。


2023年10月8日(日)  説教題:「熱心に祈ってください」  聖書;ローマの信徒への手紙15章22~33節
 パウロは各地で伝道をしていき、ローマへの道も開かれようとしています。それらは全て神様のみ心であり、そこには数々の祈りがありました。そして祈りは聞き入れられ、ローマへと向かうことが適います。しかしパウロの人生はローマで終わりを迎えます。ここで語られていたイスパニア、スペインまで行って伝道をすることは適いませんでした。神様はどうしてパウロの祈りを聞き入れられなかったのでしょう。それは誰にも分かりません。どの祈りが聞き入れられて、どの祈りが聞き入れられないのか。神様のみ心は祈る人にとってその願いどおりに働くこともあれば、そうではないときもあります。どれだけ熱心に、叫ぶように祈ったとしても、その先には良い結末が待っていない場合もあります。祈っていった先に何が待っているのかは分からない。そのように考えると、とても不安定なもののように思えてきます。
 そのような中にありましても、神様は私たちに祈ることを教えてくれました。祈りとは私たちと神様が繋がっていくためにあります。神様に向かって祈り願うとき。そこには不安や心配もあることでしょう。その祈りが聞き入れられる保障もありません。でも、祈る先には確実に神様がいます。苦しみ悩むその祈りの先に、あなたのためにみ心をもって働いてくれる神様がいます。神様が祈るあなたと一緒にいる。そして待ち続けていく時を導いてくれる。何の保障もないように見える祈りですが、その祈る人を支え導く神様がいてくれることは間違いありません。
 祈りが聞き入れられるのかは、神様のみ心次第です。しかしながら祈りがないところに、神様のみ心は働きません。私たちは人間の目に見たら不安定に思えるような「祈り」という手段であっても、神様と繋がって祈り続けていく、この幸いが与えられているのです。
 そのようにして祈る行為は孤独に感じるかもしれません。しかしこの聖書箇所が示していることは31節に書かれています。「どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください」。「わたしのために」、そして「わたしと一緒に」。祈り願う一人は孤独かもしれません。祈って欲しい課題を誰かに話すことが、難しいかもしれません。ですが、熱心に祈ってくださいとパウロが願ったように、私たちには自分のために祈ってくれる同じ神様を信じる仲間がいます。誰かが私のために熱心に祈っている。それで何も解決しなくとも、祈っている人がいるという希望が示されています。神様は私たちに祈ることを教えただけではなく、祈ってくれる人も与えてくれました。この祈りによって私たちは支えられて、誰かの熱心な祈りによって励まされて、歩んでいくことができます。祈ることを通して私とあなた、そして神様が繋がり、その繋がりが慰めと励ましになるのです。


2023年10月3日(日)  説教題:「土台」  聖書;ローマの信徒への手紙15章14~21節

 今日の世界聖餐日にはローマの信徒への手紙15章のみ言葉が与えられました。ここで語られているのは、私たちの誇り、そして土台が何であるのか、ということです。土台とは「建造物を建てるための基礎」のことを言います。この土台がしっかりしていませんと、どれだけ頑丈な素材で作った建物でも立っていくことはできません。
 私たちキリスト者の土台は聖餐を通して思い起こされるものです。今日はこの後にイエス様の十字架の出来事を記念して、私たちは聖餐式を守ります。これは世界中の教会で行われていることです。頻度や方法、そして考え方の違いはありますが、全世界の教会がキリストの出来事を記念して聖餐を守ります。それは聖餐を通して思い出すイエス様の出来事が、キリスト教会にとってなくてはならないことだからです。「キリストが私のために死んだ。それによって赦された。」この救いの知らせを受けて、私たちは礼拝を守り、教会に集まっています。それを想い起こして、また新しくされて出ていく。そのために聖餐式は守られていきます。それは喜びであるのと同時に、私たちの弱さを覚えることです。私たちは神様の前にあれだけ罪深い存在であったのに、キリストを通して赦しが与えられました。この大きな喜びは、私たちが弱いからこそ、罪ある存在だからこそ、与えられたものです。この自分自身には何の正しさも、何の誇らしさもない存在である自分が、ただ神様の恵みによってキリストと共に歩む道が与えられました。この弱さの中にある喜びが誇りです。これを私たちは聖餐を通して想い起こしていきます。そしてこの聖餐の出来事があるからこそ、私たちはイエス様によって歩む一人であり、共同体であることを覚え続けていけます。
 それが私たち信仰者の根底にある土台です。これはパウロが20節で「他人の築いた土台の上に建てたりしない」と語っていますように、律法主義やこの世の権威や財力、武力などによって支えられているものではありません。聖餐式によって想い起こしていくキリストの出来事、それによって伝えられた福音が、キリスト者を立てていく土台です。この土台があるからこそ、私たちは教会に集まり、そして共同体としてたてられていきます。私たちの誇るべき土台は、パウロが自己紹介の時から語ってきたキリストの福音です。それを私たちは聖餐式を通して、想い起こし続けていくのです。